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・幼少期に早くも弱肉強食を知る

 七歳にして、あらゆる学識に富み、勉学の師から教わることがないほど博学だったといわれるシッダッタ。将来を暗示する出来事が起こったのは、シッダッタ親子の居城・カピラ城外の農地で、神に五穀豊穣を祈る儀式が行われた。十二歳の春のことである。
 儀式は、王が鍬を農地に二、三度大地に打ち込んだあと、白牛が犂を引いて田を耕していくというもの。掘り起こされた土の中からは小さな虫が顔を出していた。するとそこへ小鳥が現れ、虫をくわえて飛び去った、しかしその小鳥もまた、猛禽の爪で挟み込まれ、どこかへ連れていかれてしまったのである。シッダッタは、この弱肉強食の光景に直面し、「これが自然の法則とはいえ、我々の世界はひとつの地獄にすぎないのだ」ということを見てとった。そしていたたまりのない思いで、一本の大樹の下に坐り、生まれてはじめての座禅を組んだのである。
 瞑想を続けていた数時間、太陽は東から西へとゆっくりと移動した。しかしなぜかその大樹の影だけは少しも動かず、シッダッタに木陰をおとしていたという。

・人生について考え、苦悩の日々を送る

 弱肉強食という世の中の現実を見て以来、シッダッタは人生そのものに悩み、物思いにふける日々を送っていた。そんな姿を見た淨飯王は、悩みを忘れシッダッタに、悩みを忘れ世俗の快楽求めるよう勧めた。そして、冬期・夏期・雨期というそれぞれの季節を過ごすのにふさわしい三つの宮殿を与え、女性だけの伎楽に囲まれ暮らすなど、シッダッタにありとあらゆる贅沢をさせたのであった。
 こうした毎日もシッダッタの悩みを解消できるような効果はなかった。淨飯王はシッダッタが帝王の道ではなく、出家の道を選ぶのではないかと、常に心配していなければならなかった。そこで出家することを断念させようと、同じ釈迦族の善覚王の娘・ヤソーダラー姫を、シッダッタの妃として迎え入れたのであった。
 物質的には何不自由がないものの、精神的に満たされない思いに枕にでいたシッダッタ。見かねた淨飯王は、気晴らしにと、城外に出ることを提案。シッダッタはカピラ城から東西南北へ、四回にわたって遊学することになった。しかし皮肉にも、それこそが出家するきっかけとなったのである。

・出家を決意させた四門出遊

 まずは東門をくぐった。このとき、よぼよぼに衰えた老人と出会う。シッダッタが初めて見る“老い”のすがたであった。次は南の門を出たが、ここではやつれた病人、西の門では、死人に出会った。シッダッタは老・病・死という人生の基本的な
“苦”にに直面し、帰城するや、煩を繰り返した。
 そして最後に、北門で出会ったのが、毅然としたひとりの沙門(婆羅門以外の出家修行者)であった。シッダッタはここで、迷いの世界から解脱するという理想の姿に出会い、自らの進むべく道を決心したのである。シッダッタが四つの門の外で見た、老・病・死と沙門は、実はすべて彼を導くために梵天が変身した姿であった。

・長男に「妨げ」という名をつけ出家

 出家したのは29歳のとき。当時、跡取りがないと出家できないきまりであったが、奇跡が起こった。傍らいにいたヤソーダラー妃の腹部へ磁気でも投げかけるようにシッダッタが指差すと、たちまち懐妊し、長男が生まれたのである。シッダッタは情が移って決意の妨げになることを恐れ、この子にラーフラー「妨げ」という意味の名をつけ、城を後にしたのである。

・二人の師のもとで禅定を学ぶ。
 
 婆羅門以外の出家修行者のことを沙門という。つまり、シッダッタも帝王の道を捨て、家を出た時から沙門になったわけである。ゴーダマ沙門はマガダ国まで旅をし、そこでまず「禅定」とよばれる座禅瞑想によって精神統一をはかる修行を行うことにした。最初についた師はアーラーラ仙という。アーラーラ仙は百四年間も修行したのちに、ようやく得た徹底した無執着の境地=無所有処定という禅定を教えていた。しかし、ゴーダマ沙門はほんの短期間のうちにこの境地に到達してしまったという。驚いた師は、教団の指導者になるよう要請したが、、ゴーダマ沙門はこれを断り、より高い境地を求めるため、つぎの師を求め去って行った。そして次に師事したのが、非想非非想処定を説くウッダカ仙であった。非想(無念無想)という一切の思いを否定した境地を、さらに否定した非非想の境地のこと。アーラーラ仙の教える無所有処定よりやや高い境地で、禅定によってできる最高の境地といわれている。しかしゴーダマ沙門は、この境地にさえもすぐに到達してしまったのである。

・想像を絶する苦行の数々を行う

 ウルヴェーラ地方のセーナーニ村は、近くにガンジスの支流・尼連禅河が流れ、周囲を木立に囲まれた静寂な村である。ゴーダマ沙門の苦行はこの村で行われた。苦行には、朝から晩まで片足で立ち続けたり、首まで大地に埋め込み続けたり、照り続ける太陽を裸眼で見つめるなど、厳しい修行が多い。ゴーダマ沙門は、なかでも最も困難といわれる断食にも挑んだ。断食は通常二十一日間が限度とされている。しかしゴーダマ沙門は、その倍の四十二日間を行い、人々に驚嘆、称讃されたのである。しかも、多くの人がゴーダマ沙門のもとへ集まり、「沙門ゴーダマ」をリーダーとする六人の苦行者集団までできあがった。以来、さらに苦しい苦行が続けられていった。特にゴーダマ沙門の苦行はすさまじく、骨と皮だけのやせこけた姿になって、仲間たちにも死んでしまったと錯覚されるほどの苦行を次々と行ったという。

・やがて苦行の無意味さに気づく

 苦行を続けているゴーダマ沙門の求めていたものは、当然“さとり”である。しかし、なかなか満足する境地を得ることはできなかった。ある日、尼連禅河の堤を一人の農民が俗謡を口ずさみながら通った。
   琵琶の弦
   きりりと締めれば ぶつり切れ
   さりとて弛めりゃ ぺろんぺろん
 古代インドでは、だれもが耳にしたことのあるような歌である。しかし、ゴーダマ沙門にとっては、とても重大な意味をもって聞こえたのであった。「もしかすると苦行とは、ただ苦しいだけなのではないか。」ゴーダマ沙門は、この歌の意味を深く噛みしめると、たちまち苦行の無意味さに気がついたのであった。

・苦行の末にたどりついた中道思想

 能美の歌を聴いて、苦行の無意味さに気がついたゴーダマ沙門は、自らの過去を振り返って反省し、自分が進むべき本当の道を考えはじめた。ゴーダマ沙門は、まだカピラ城にいた頃、父のすすめもあちて贅沢三昧な生活にふけっていた。その快楽は生活をする上で、一つの極端な姿であった。一方、修行をはじめてからは、生命の縁までをも垣間見るような苦行を行ったが、これも極端な姿でしかなかった。「このまま修行を続けていれば、何か得られるときがくるかもしれない。しかしそれは、自分が求めているものとは違う。苦しみや欲望に揕える人間にはなるのだろうが、真理や本当の心の安らぎは得られない。」真理をとらえるためには、極端に偏ってはいけない。その中程を貫く過程ー中道が大切なのである。ゴーダマ沙門は、ついに自らの望む道にたどりついたのであった。この“中道思想”をゴーダマ沙門はさっそく、苦行を続けている仲間たちに話した。しかし彼らは「中途半端はいけない」「迷ってはいけない」と口々にいい、それでも決意を翻さないゴーダマ沙門に対し、「墜落者」というレッテルをはって、その場を去って行った。

・冥想を行い、強靱な意志で迷いに打ち勝つ

 苦行でやせ細り、垢と埃にまみれていたゴーダマ沙門は、あるとき尼連禅河で沐浴をした。しかし体力がなく、流れにはまり、命を落としかけた。実はさとりを間近にひかえていたゴーダマ沙門に対する“悪魔”の挑戦のひとつなのだが、危機一髪、帝釈天に助けられたのである。そして岸辺で休んでいると、そこへスジャータというセーナーニ村の村長の娘が通りかかり、その日から彼女はゴーダマ沙門をを介抱。衰弱しきっていた体に、毎日乳粥を献じてくれたのである。おかげで二か月もたつと、ゴーダマ沙門の体は、みるみる回復していったのであった。健康になったゴーダマ沙門は尼連禅河を渡り、ガヤー町郊外にあるブッダガヤーに移った。そして大きな菩提樹の下で「われは正覚(さとり)を得るまで、この座を立たず」と決意し、座禅を組んだのである。とはいえ、やはり簡単にさとることはできない。ゴーダマ沙門は、“目覚め”を邪魔する数々の悪魔、つまり人間の心のいちにある「迷い」と戦わなければならなかった。悪魔は富、権勢、美しい娘など、あらゆる手管で挑戦してきた。しかしゴーダマ沙門は、それらに揺さぶられることはなかった。そこで悪魔は、次に武器を持った軍勢を率いて襲ってきたが、これすら何の効果も得られなかったのである。悪魔に打ち勝ったゴーダマ沙門は、過去から現在に至る自分のあり方、地獄界から天上界に至るまでの全世界、そこに生きる生命といった物事を想起し、深く瞑想した。そして出家してから六年目にあたる三十五歳のとき真理に目覚め、「仏陀」となったのである。仏典ではこの仏陀の誕生を「降魔成道」と呼んでいる。

・釈迦は最初、難解な真理を世間に説くことをとまどう
 さとりを開き、仏陀となったゴーダマは、ゴーダマ・ブッダという名でしられるが、“釈迦族の聖者で、世に尊崇を受けている人”という意味から釈迦牟尼世尊、あるいは、その略称である釈尊とも呼ばれる。釈迦は、欲望や執着など、一切の迷いがなくなったあとに得た真理を二十一日の間、菩提樹の下に坐ったまま、繰り返し味わっていた。そしてそのまま一人で
楽しみ、入滅するつもりであった。なぜなら釈迦がさとった真理は、ふつうの人が理解するにはとても難解なものであったからである。釈迦がみいだした“中道”は、それまでのインドの思想には、一度も現れなかった考え方である。高度な技術や修行は、伴わないのであるが、あまりに異質なため理解の域を超えてしまっていたのであった。つまり、下手に説けば間違った解釈をされ、釈迦が得た通りの真理は伝わらない。とれなら説かないほうが良いと考えたのだ。しかし、梵天は伝道をはじめるように何度も懇願した。そして、ためらう釈迦に対し「けれども、世の中には泥の中から咲でる蓮のように、世尊の教えを受けて、花を咲かせる者もおりましょう」と説得し、ついに伝道をかついさせたのである。
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