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 このブログに訪問くださりありがとうございます。これも何かのご縁だと思い心から感謝いたします。まず初めに管理人である私がこのブログをたちあげたのは、世の中の人たちに少しでも仏教のことを理解してもらおうと思ったからです。仏教と一言でいっても、いろんな宗派があります。皆さんはどれくらいあるかご存知ですか。答えは13です。ではなぜ13もの宗派があるのか、それが何の意味をなすのか疑問に思いませんか。私は、以前疑問に思っていました。早い話がビジネスでしょう。先祖が浄土宗であれば、子孫にもそれが受け継がれていく。いわば、ひも付きといってもいいでしょう。これは、私の一個人としての考えですか、そんなの関係ありません。但し、基本はお釈迦様の説かれた法ですが、それが日本に伝わった時に坊さんたちがアレンジしたものと考えればよいでしょう。それではまず、お釈迦様についてお話していきましょう。

・お釈迦様は、どんな人だったのか?
 仏教の開祖釈迦は、2500年前にインドで生まれました。お釈迦様の本名は、姓をゴータマ、名をシッダッタといいます。釈迦という呼び名は、その出身地である釈迦族からとったももです。のち、真理に目覚めてからは仏陀、また、釈迦族の聖者という意味をもつ、釈迦牟尼世尊(略して釈尊)などと呼ばれるようになります。この続きは、おいおいお話しする として、死についてお話して行きましょう。

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 まず、人は亡くなると、暗い闇に落とされます。一人で真っ暗な闇を歩いて行きます。その後、死出の山という剣のようにとがった岩と、身を引き裂くような風が吹き荒れている山を羅刹(鬼)に追われながら登ります。

初七日(泰広王:本地は不動明王)

ここでは人間界にて仏道修行をしていなかったこと咎められます。

◎三途の川(①善人は橋 ②罪の軽い人は浅瀬 ③罪の重い人は強深瀬)を渡ります。    
 *一部経の薬王菩薩本事品二十三の中に渡る船を得たるが如くとあるように、追善供養のお経は三途の川を渡るといいます。


二十七日(初江王:本地は釈迦如来)

ここでは、二つの巻物を読み上げられます。一つは、すべての犯した罪。一つは、すべての行った善行。

◎業関(ごうかん):関所で関守の鬼から”罪業は手足で作るものだ”と言われ、手足を切られてしまいます。それでもまた手足ができ、歩いて行きます。


三十七日:(宗帝王:本地は文殊師利菩薩)

ここでは、俱生神(ぐしょうじん)が一生の罪を記録しており、その罪を雷鳴のように大声で読み上げられます。

◎業江(ごうこう):熱湯のように熱く、臭い大きな河に落とされます。体は煮えただれ、毒虫が集まってその体を食い始めます。(この苦しみを七十七夜うけます)


四十七日(五官王:本地は普賢菩薩)

ここでは、一生の悪業を業の秤に乗せられ、大きな岩のような石と天秤にかけられるが、自分の方が重い(罪が重い)ことがはっきりわかります。そして、鉄の棒で体を打ち砕かれます。しかし、業の報いでまた活きかえります。


五十七日:(闇魔王:本地は地蔵菩薩)

ここでは、闇魔大王の裁きを受けます。俱生神(ぐしょうじん)が書き示した悪業を読み上げられ、その言い訳をすると、浄頗梨(じょうはり)の鏡という九麺の中に入れられ、一つ一つの鏡に一生犯した罪、自分しか知らない悪業までも残らず浮かび写ります。その後、棒で体を打ち砕かれます。また活きかえり、重なる苦しみを受けます。

◎鉄丸所(てつがんしょ)という難所を通ります。(広い河原です)大きな石につぶされ、また活きかえり、またつぶされることが七十七日続きます。

六十七日:(変成王:本地は弥勒菩薩)

ここでは三つの道に分かれているどれかを選ぶように言われ、善人なら悪道にはいかないといわれるが、罪人は、悪道に入り、銅の煮え湯を浴びてしまいます。

◎闇鉄所(あんてつしょ)という、暗く狭く角が刀のような岩場を七十七夜歩いて行きます。


七十七日:(泰山王:本地は薬師如来)

ここでは泰山王人として生をうけ、得難い仏法にめぐりあうことができたのに、仏道修行をしなかったことを咎められます。そしてこの後、次の行先を決められます。六つの鳥居のいずれかをくぐります。(①地獄 ②餓鬼 ③畜生 ④修羅 ⑤人 ⑥天)追善の供養が届いた人は⑤人もしくは⑥天に行くことができます。それでも行き先が決まらない人は次のところへ行くこととなります。

◎鉄水山(てっぴょうせん)という、鉄の分厚い氷でできた河原を渡ります。寒さや冷たさで、体が引き裂かれます。

百箇日:(平等王:本地は観世音菩薩)

ここでは仏道を信じなかった者たちに親の追善供養をしてこなかったことを咎められます。自分の心がけによってここまで来たことを咎められます。


一周忌:(都弔王:大勢至菩薩)

ここでは光明箱という箱を開け、罪の有無で開けた箱の中から猛火が燃え上がり、罪人の身を焼きます。しかし、追善の供養があれば、火も小さくなり、その罪を許されます。


三回忌:(五道輪転王:本地は釈迦如来)

子孫の追善の供養がない罪人はこの後、地獄に落とされます。追善の供養があれば、その罪を許されます。


さて、死後の世界がどんなものかお分かりいただけましたか?仏教では、死後の世界が存在するがゆえに亡くなった方の追善供養が必要になります。このことをご理解いただいたうえで、話を進めてゆきます。

前後しましたが、お釈迦様について話を元に戻します。

・幼少期に早くも弱肉強食を知る

 七歳にして、あらゆる学識に富み、勉学の師から教わることがないほど博学だったといわれるシッダッタ。将来を暗示する出来事が起こったのは、シッダッタ親子の居城・カピラ城外の農地で、神に五穀豊穣を祈る儀式が行われた。十二歳の春のことである。
 儀式は、王が鍬を農地に二、三度大地に打ち込んだあと、白牛が犂を引いて田を耕していくというもの。掘り起こされた土の中からは小さな虫が顔を出していた。するとそこへ小鳥が現れ、虫をくわえて飛び去った、しかしその小鳥もまた、猛禽の爪で挟み込まれ、どこかへ連れていかれてしまったのである。シッダッタは、この弱肉強食の光景に直面し、「これが自然の法則とはいえ、我々の世界はひとつの地獄にすぎないのだ」ということを見てとった。そしていたたまりのない思いで、一本の大樹の下に坐り、生まれてはじめての座禅を組んだのである。
 瞑想を続けていた数時間、太陽は東から西へとゆっくりと移動した。しかしなぜかその大樹の影だけは少しも動かず、シッダッタに木陰をおとしていたという。

・人生について考え、苦悩の日々を送る

 弱肉強食という世の中の現実を見て以来、シッダッタは人生そのものに悩み、物思いにふける日々を送っていた。そんな姿を見た淨飯王は、悩みを忘れシッダッタに、悩みを忘れ世俗の快楽求めるよう勧めた。そして、冬期・夏期・雨期というそれぞれの季節を過ごすのにふさわしい三つの宮殿を与え、女性だけの伎楽に囲まれ暮らすなど、シッダッタにありとあらゆる贅沢をさせたのであった。
 こうした毎日もシッダッタの悩みを解消できるような効果はなかった。淨飯王はシッダッタが帝王の道ではなく、出家の道を選ぶのではないかと、常に心配していなければならなかった。そこで出家することを断念させようと、同じ釈迦族の善覚王の娘・ヤソーダラー姫を、シッダッタの妃として迎え入れたのであった。
 物質的には何不自由がないものの、精神的に満たされない思いに枕にでいたシッダッタ。見かねた淨飯王は、気晴らしにと、城外に出ることを提案。シッダッタはカピラ城から東西南北へ、四回にわたって遊学することになった。しかし皮肉にも、それこそが出家するきっかけとなったのである。

・出家を決意させた四門出遊

 まずは東門をくぐった。このとき、よぼよぼに衰えた老人と出会う。シッダッタが初めて見る“老い”のすがたであった。次は南の門を出たが、ここではやつれた病人、西の門では、死人に出会った。シッダッタは老・病・死という人生の基本的な
“苦”にに直面し、帰城するや、煩を繰り返した。
 そして最後に、北門で出会ったのが、毅然としたひとりの沙門(婆羅門以外の出家修行者)であった。シッダッタはここで、迷いの世界から解脱するという理想の姿に出会い、自らの進むべく道を決心したのである。シッダッタが四つの門の外で見た、老・病・死と沙門は、実はすべて彼を導くために梵天が変身した姿であった。

・長男に「妨げ」という名をつけ出家

 出家したのは29歳のとき。当時、跡取りがないと出家できないきまりであったが、奇跡が起こった。傍らいにいたヤソーダラー妃の腹部へ磁気でも投げかけるようにシッダッタが指差すと、たちまち懐妊し、長男が生まれたのである。シッダッタは情が移って決意の妨げになることを恐れ、この子にラーフラー「妨げ」という意味の名をつけ、城を後にしたのである。

・二人の師のもとで禅定を学ぶ。
 
 婆羅門以外の出家修行者のことを沙門という。つまり、シッダッタも帝王の道を捨て、家を出た時から沙門になったわけである。ゴーダマ沙門はマガダ国まで旅をし、そこでまず「禅定」とよばれる座禅瞑想によって精神統一をはかる修行を行うことにした。最初についた師はアーラーラ仙という。アーラーラ仙は百四年間も修行したのちに、ようやく得た徹底した無執着の境地=無所有処定という禅定を教えていた。しかし、ゴーダマ沙門はほんの短期間のうちにこの境地に到達してしまったという。驚いた師は、教団の指導者になるよう要請したが、、ゴーダマ沙門はこれを断り、より高い境地を求めるため、つぎの師を求め去って行った。そして次に師事したのが、非想非非想処定を説くウッダカ仙であった。非想(無念無想)という一切の思いを否定した境地を、さらに否定した非非想の境地のこと。アーラーラ仙の教える無所有処定よりやや高い境地で、禅定によってできる最高の境地といわれている。しかしゴーダマ沙門は、この境地にさえもすぐに到達してしまったのである。

・想像を絶する苦行の数々を行う

 ウルヴェーラ地方のセーナーニ村は、近くにガンジスの支流・尼連禅河が流れ、周囲を木立に囲まれた静寂な村である。ゴーダマ沙門の苦行はこの村で行われた。苦行には、朝から晩まで片足で立ち続けたり、首まで大地に埋め込み続けたり、照り続ける太陽を裸眼で見つめるなど、厳しい修行が多い。ゴーダマ沙門は、なかでも最も困難といわれる断食にも挑んだ。断食は通常二十一日間が限度とされている。しかしゴーダマ沙門は、その倍の四十二日間を行い、人々に驚嘆、称讃されたのである。しかも、多くの人がゴーダマ沙門のもとへ集まり、「沙門ゴーダマ」をリーダーとする六人の苦行者集団までできあがった。以来、さらに苦しい苦行が続けられていった。特にゴーダマ沙門の苦行はすさまじく、骨と皮だけのやせこけた姿になって、仲間たちにも死んでしまったと錯覚されるほどの苦行を次々と行ったという。

・やがて苦行の無意味さに気づく

 苦行を続けているゴーダマ沙門の求めていたものは、当然“さとり”である。しかし、なかなか満足する境地を得ることはできなかった。ある日、尼連禅河の堤を一人の農民が俗謡を口ずさみながら通った。
   琵琶の弦
   きりりと締めれば ぶつり切れ
   さりとて弛めりゃ ぺろんぺろん
 古代インドでは、だれもが耳にしたことのあるような歌である。しかし、ゴーダマ沙門にとっては、とても重大な意味をもって聞こえたのであった。「もしかすると苦行とは、ただ苦しいだけなのではないか。」ゴーダマ沙門は、この歌の意味を深く噛みしめると、たちまち苦行の無意味さに気がついたのであった。

・苦行の末にたどりついた中道思想

 能美の歌を聴いて、苦行の無意味さに気がついたゴーダマ沙門は、自らの過去を振り返って反省し、自分が進むべき本当の道を考えはじめた。ゴーダマ沙門は、まだカピラ城にいた頃、父のすすめもあちて贅沢三昧な生活にふけっていた。その快楽は生活をする上で、一つの極端な姿であった。一方、修行をはじめてからは、生命の縁までをも垣間見るような苦行を行ったが、これも極端な姿でしかなかった。「このまま修行を続けていれば、何か得られるときがくるかもしれない。しかしそれは、自分が求めているものとは違う。苦しみや欲望に揕える人間にはなるのだろうが、真理や本当の心の安らぎは得られない。」真理をとらえるためには、極端に偏ってはいけない。その中程を貫く過程ー中道が大切なのである。ゴーダマ沙門は、ついに自らの望む道にたどりついたのであった。この“中道思想”をゴーダマ沙門はさっそく、苦行を続けている仲間たちに話した。しかし彼らは「中途半端はいけない」「迷ってはいけない」と口々にいい、それでも決意を翻さないゴーダマ沙門に対し、「墜落者」というレッテルをはって、その場を去って行った。

・冥想を行い、強靱な意志で迷いに打ち勝つ

 苦行でやせ細り、垢と埃にまみれていたゴーダマ沙門は、あるとき尼連禅河で沐浴をした。しかし体力がなく、流れにはまり、命を落としかけた。実はさとりを間近にひかえていたゴーダマ沙門に対する“悪魔”の挑戦のひとつなのだが、危機一髪、帝釈天に助けられたのである。そして岸辺で休んでいると、そこへスジャータというセーナーニ村の村長の娘が通りかかり、その日から彼女はゴーダマ沙門をを介抱。衰弱しきっていた体に、毎日乳粥を献じてくれたのである。おかげで二か月もたつと、ゴーダマ沙門の体は、みるみる回復していったのであった。健康になったゴーダマ沙門は尼連禅河を渡り、ガヤー町郊外にあるブッダガヤーに移った。そして大きな菩提樹の下で「われは正覚(さとり)を得るまで、この座を立たず」と決意し、座禅を組んだのである。とはいえ、やはり簡単にさとることはできない。ゴーダマ沙門は、“目覚め”を邪魔する数々の悪魔、つまり人間の心のいちにある「迷い」と戦わなければならなかった。悪魔は富、権勢、美しい娘など、あらゆる手管で挑戦してきた。しかしゴーダマ沙門は、それらに揺さぶられることはなかった。そこで悪魔は、次に武器を持った軍勢を率いて襲ってきたが、これすら何の効果も得られなかったのである。悪魔に打ち勝ったゴーダマ沙門は、過去から現在に至る自分のあり方、地獄界から天上界に至るまでの全世界、そこに生きる生命といった物事を想起し、深く瞑想した。そして出家してから六年目にあたる三十五歳のとき真理に目覚め、「仏陀」となったのである。仏典ではこの仏陀の誕生を「降魔成道」と呼んでいる。

・釈迦は最初、難解な真理を世間に説くことをとまどう
 さとりを開き、仏陀となったゴーダマは、ゴーダマ・ブッダという名でしられるが、“釈迦族の聖者で、世に尊崇を受けている人”という意味から釈迦牟尼世尊、あるいは、その略称である釈尊とも呼ばれる。釈迦は、欲望や執着など、一切の迷いがなくなったあとに得た真理を二十一日の間、菩提樹の下に坐ったまま、繰り返し味わっていた。そしてそのまま一人で
楽しみ、入滅するつもりであった。なぜなら釈迦がさとった真理は、ふつうの人が理解するにはとても難解なものであったからである。釈迦がみいだした“中道”は、それまでのインドの思想には、一度も現れなかった考え方である。高度な技術や修行は、伴わないのであるが、あまりに異質なため理解の域を超えてしまっていたのであった。つまり、下手に説けば間違った解釈をされ、釈迦が得た通りの真理は伝わらない。とれなら説かないほうが良いと考えたのだ。しかし、梵天は伝道をはじめるように何度も懇願した。そして、ためらう釈迦に対し「けれども、世の中には泥の中から咲でる蓮のように、世尊の教えを受けて、花を咲かせる者もおりましょう」と説得し、ついに伝道をかついさせたのである。

・鹿野苑ではじめての法を説く

 伝道の相手として最初に選んだのは、以前ともに苦行を行い、のちに袂をわかった五人の仲間たち(比丘)であった。彼らはベナレス郊外サールナートのミガダーヤ(鹿野苑)にいるという。釈迦はさっそくミガダーヤへ向かった。その途中で出会ったのが、ウバカという他教の沙門であった。彼は、釈迦に対し、師は誰か、どういった思想をもっているのかと聞いてきた。はからずも、自分の真理を説く相手を見つけた釈迦は、「私に師はありません。自らの真理をもつ者です」と、その法を説こうとした。しかし師がいないと聞くと、ウバカはとりあおうともせず、皮肉な言葉を残して去って行ったのである。ミガダーヤに到着した釈迦は、またしても説法への抵抗にあった。はじめのうち五人の比丘たちは、「快楽に身をまかせ墜落者になった」釈迦の言葉など聞く耳をもたないという態度を示したのである。しかし釈迦は、熱心に自ら得た真理を説いていった。そうするうちに、ひとり、またひとりと、徐々に釈迦の話を聞くようになり、難解であったその真理の意味をどんどん理解していくようになったのであった。このはじめての説法を仏典では“初典法輪”といっている。

・釈迦は、人間の苦の原因とその解決法を説いた

 釈迦が菩提樹の下でさとり、説いた教えとは、「縁起」「四諦」「八正道」から成っている。「縁起」とは、物事が互いに関係しあっているという意味。そこから人間が苦であるならば、原因がなくなれば、苦悩もなくなるということを導きだし、人生が苦であることの根本原因を考えたのである。「四諦」とは、四つの真理のことで「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」をいう。それぞれの苦という人生の本質、苦の原因、原因の消滅、苦の原因を取り除く方法を説いている。四諦のうちの道諦をさらに詳しく説いたのが、「八正道」である。ここでは苦を消滅させるためには、八つの正しい道(方法)があるとしている。正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定というのがそれで、これらの修行を積むことによって、煩悩をなくし、結果として苦を克服することができるとしているのである。釈迦はこうした教えを相手の理解力や素質に応じて、臨機応変に説いていった。これが「対機説法」あるいは「応病与薬」と呼ばれる説法のしかたである。
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